アルバイトした大学の学生課の女性

Hな体験

〔体験談投稿者:Small Stone River 様〕

大昔の話だ。

俺の育った家は裕福ではなかったが、両親は俺を大学に進学させてくれた。
「仕送りは要らない」と俺は言い、入学してルーティンが落ち着くと、俺はすぐアルバイトを探した。
職種も仕事もなんの区別も選り好みもなかったが、ひとつだけこれはどうしても、というのがあった。
それは“座ってやる仕事がしたい”ということだった。

それは理由があって、俺は高校生活の3年間を野球に例えるなら5回の裏くらいから試合終了まで、住んでいた町の商店街の蕎麦屋でアルバイトをしていた。
店主をはじめ皆優しくいい人たちだったのだが、仕事は厳しく教えられ、働く心構えも叩き込まれた。

その中に、「店を開いて閉めるまで、座っていいのは便所だけ」っていうのがあった。

店主は、「お客さんは立って、歩いて店に入(へえ)ってくるだろう。そのとき蕎麦屋がいらっしゃーい、って言ってのんびり椅子から立ち上がったのを見たらどうだい?こっちも立って迎えるのが筋だろう。お客はいつ来るかわかんねえ。だから立っていろ」と言う。

まあもっともなのだが、さすがに最初は堪えた。
しかし人間は慣れるもので、気がつけば一日立ちっぱなしでひたすらネギを刻んでも平気になった。

でも次の仕事はさすがに座ってやりたい。
それくらい許されるだろう(笑)

俺は学生課のアルバイト応募に登録したが思わしくない。
仕方ないな、と思い、構内の学食で募集していた調理担当で働くことにした。
賄いがあるのも助かる。
なんのことはない、また蕎麦やうどんを茹で始めたわけだ。

若手からベテランまでいたが、すぐに「お前やったことあるな?」とバレた(笑)

「ええまあ、ちょっと・・・」

そう言葉を濁すと(濁す必要もないのだが)、「ちゃんと仕事教わったんだなオマエ。よかったな」と年長のスタッフに言われると、蕎麦屋の経験は貴重だったな、と俺は改めて思った。

前期の授業が終わり、学生は夏休みだが大学自体は開いているし、学食も営業する。
俺は別になんという用事もないし、帰省もしないので、そのまま働いていた。

すると前期でバイトを終えた3回生の先輩格の男子学生から声をかけられた。

「N、夕方以降って時間あるか?俺がやってた大学の事務の補佐のバイトも引退でさ、時間が合えばやってくれないかな?」

俺は内心「やった!」と思った。
どんな仕事かは知らないが、事務といえばさすがに「終わるまで立っていろ」はないだろう。
俺はふたつ返事で。

「やります。いつでも言ってください」

「じゃ、きょう連れてくよ」

話はすぐ決まり、俺はその日の夕方すぐに、大学の事務棟に寄った。
そこに足を踏み入れたのは入学手続きの時以来だった。

職員に紹介され、仕事の内容を教わった。
こういうときは学生証だけで全部済むから話が早い。
色々な部署から申請があった書類や手続きの書面を確認したり、授業料の納入や奨学金について出納課や行政とのやりとり。
それほど細かい仕事はないが、学生の数も多いので書類も多い。
手続きも膨大だ。

(慣れるまでは少し時間がかかるな)と俺は思ったが、念願の憧れの座り仕事、事務職だ!(笑)

俺は先輩に、「紹介していただいてありがとうございます」と心からお礼を言った。

「そんなに喜ぶとは思ってなかったよ」と先輩は苦笑した。

授業が連続して空いた時間は学食で白い割烹着を着て蕎麦やカレーを作り、講義が全部終わったら事務仕事。

(やっぱり学生じゃなきゃできないな)と思う日々を俺は送るようになった。

実は俺は他人と“つるむ”のが苦手、というか嫌いだった。
嫌いというか、意味が見いだせない。
仲間も友達も友情も、それはそれで貴重だろう。
ただ、貴重だと思う人は求め、俺みたいに大した思い入れのない人間は一人でいい。
協力や協調は必要や必然があれば俺だってやるが、用がなければ一人でいるのはなんともない。
時間が余れば、蕎麦屋のバイトを終えたときにそのままもらった出前用のバイクでふらりと出かけた。

出前のバイクというのは知っている人は知ってるが、1リットルのガソリンで信じられないほどの距離を走れる。
好きなときに好きな場所に行って好きなときに休む。
時刻表もない。
終電も終バスもない。
大学に入学するまでは来たこともなかった街を抜け郊外から田舎道へ。
どこかの河原で昼寝をして夕陽を追いかけてアパートに戻る。

そんな日々を送るうち、もう肌寒い時期になった。

ある日、事務仕事で書類の確認を済ませ、不備の箇所やら記入漏れやらに付箋をつけてまとめた束を職員の女性のところに持っていく。

「ああN君、ご苦労さま。・・・君いつも薄着だね。寒くないの?見てるだけで寒いよ」

この女性職員は、いつもじっと人の顔と目を見るのだ。
そういうタイプの人なんだろうけど、妙なプレッシャーを感じるときもある。

「いや別に・・・室内ですし」

「いや、室内はいいけどその恰好で帰るの?君、珍しい通学手段だって福禄寿(学生課長のあだ名)が言ってたよ」

「ああ・・・バイクのことですか。バイク通学は別に珍しいことじゃ・・・」

「そのバイクが珍しいよ。あれお蕎麦屋さんとかお寿司屋さんのバイクじゃないの?N君は下宿だよね?実家ってお店?」

そう言われ、俺は苦笑した。
確かに、出前のアルバイトで使っていたバイクの姿そのままなので、バイクが揺れても大丈夫な岡持ちをぶら下げるアレ(蕎麦屋では『エビス』って言っていたが、なぜそう呼ぶかは不明)が付いたままなのだ。

「あのバイクは貰い物なんです・・・。教科書や荷物も積めて便利で、ついそのままで」

「カジガワさん(別の職員の女性)が言ってたよ。君、アレで休みの日出かけるんだって??カジガワ一家がRワールド(地域ローカルの遊園地)で見かけたって」

「ああ・・・行きましたね、駐車場で見たのかな・・・」

「何よ、デート?」

「いや、あのバイクに二人は乗れません」

「一人でRワールド行ってどうすんのよ!!」

「いや・・・遊園地に行ったわけじゃなくて、駐車場に停めて国道の向こうのS川に行ったんです」

「川って、何しに?釣り?」

「いやその・・・野鳥とか見たり、昼寝したりしますね」

「アハハハハ!」

その職員は豪快に笑った。

「君、面白いね。なんか、大昔の学生みたい。褒めてるんだよ。そうそう、これから冬もバイクで学校来るんでしょ?バイクでも着られそうな冬用のヤッケとか、ウチにたくさんあるんだけど良かったら貰ってくれない?要らないならそのまま捨てるから気にしないでいいよ。あさっての日曜って暇かな?時間あったらウチに取りに来てよ。ハイ、これ」

と、裏に自宅の住所と電話番号が手書きしてある名刺をくれた。

「・・・ありがとうございます。じゃあ電話してから伺います」

と、俺は言った。
人懐っこいのか何なのか、細かいことは気にしないのか、俺は至って人畜無害だが、それでも女性として警戒心が少ないと言えば少ない。

(まあ俺は何の変哲もない大学生だし、どこの誰か素性が判っているからかな?)と思った。

その日曜日、俺はその職員の家に午後になって電話をした。
その職員本人が出た。

「こんにちは。教務係のアルバイトのNです。時間を言っていただければ伺います」

「いつでもいいよ。いまどこの公衆電話?」

「N谷町の、大きなお寺のとこです」

「ああ、D寺ね。そこからなら10分くらいだね。待ってるよ」

その家は平屋の一戸建てで、新しくはないが小奇麗に手入れされていた。
家族構成も知らないし、誰が何人いるのかもわからない。
こういうときはコーヒー豆か、紅茶か、お茶っ葉を持っていけと蕎麦屋の店主に教わった。
腐らないし、人数がわからなくても大丈夫、使っていつか消えてなくなる、と言われたのを覚えていたのだ。

「お菓子とかはどうですか?」

と俺は訊いたことがあるが、店主は・・・。

「菓子やケーキは、あっちの人数がわかってる時じゃなきゃいけない。そしてその数に2個足すんだ」

「自分のぶん・・・の1個だけじゃなくて、2個ですか?」

「先客がいるかもしれないだろう。覚えとくと損はしないよ」

なるほど、と思った記憶がある。

じゃあ今日はコーヒーか紅茶か日本茶か、は自分で想像するしかない(笑)
俺はその女性職員が休憩時には自販機の紙コップのコーヒーをよく飲んでいるのを見ていたので、コーヒー豆を喫茶店で買い、持っていった。

家の横にバイクを停め、インターホンを押すと彼女が出てきた。

「おお、いらっしゃい。入って。わざわざ来てもらってごめんね」

「これはコーヒー豆なので、よかったら使ってください」

茶色の紙袋を渡すと・・・。

「おっ、珈琲豆!嬉しい。この袋はもしかしてKの豆?」

「そうです。通り道沿いだったので」

「ありがと!あの店好きなんだよ」

「グアテマラっていうのにしました。コーヒーのことはあまりわからないので・・・」

「わかんないのにグアテマラ?嬉しい嬉しい。じゃあコーヒーをまず、いただこうかな」

居間に通され、職員は続きのキッチンでコーヒーを淹れていた。
初めて来る他人の家だからジロジロ見るのも行儀が悪いが、何かこう、家に人の気配がない。
玄関にも靴が並んでいない。
子供の自転車も一輪車(笑)もない。
高齢者の杖もない。
下駄箱の上に東郷青児の複製画やカレンダーもない。

そして居間というのはだいたい、“家族”にまつわる何かしらの“物の集積”がある。
そして家族構成やら世代の連なりやら、その家の雰囲気が出るものだ。
・・・が、この家、この部屋はそれがまったく希薄だ。
まあ、余計なガラクタがないということなのだろう。
俺は表札もポストも、『S』という姓だけしか書かれていなかったことを思い出した。

これも蕎麦屋の教訓だが・・・。

「人は多かれ少なかれ、表向き平然としていても色んな事情や問題を抱えてる。向こうから話してきたら聞けばいいが、こっちから他人の事情を訊いちゃダメだ。人はそういう『事情』を訊かれたときの“当たり障りのない答え”をみんな用意して生きてるもんだが、それを向こうに言わせたら気の毒っていうもんだ。そしてな、イイ大人は、内輪しかいない席ならいいが、他人とごっちゃの場所でハシャぐな。電車や飛行機で、コッチは旅行だ遊びだってハシャぎたくなるのも無理はないが、隣の席にいる客は、危篤の親の死に目に遭えるかどうかで今向かってるところかも知れねえ。交通事故に遭った息子が入院してる病院に駆けつける途中かも知れねえ」

それ以来、俺は他人と一緒の場所になると、(今俺の横にいる愛想の悪い禿親父も、実は危篤の親に・・・)と思う癖がついてしまった。
まあ、自分が困ったり人に迷惑をかけるような癖でもない(笑)

「N君、コーヒー淹れたよ。いい香りだな~、ありがとう」

そのSさんがカップとポットとクッキーを載せたトレイを持ってきた。

「まずはコーヒー飲んで。それから衣裳部屋見てもらうかな」

俺はコーヒーをゆっくり味わった。
旨い。
ちゃんと豆から売ってるコーヒーというのはこんなに美味しいものだったのか。

「おいしい・・・ですね。とても」

「君が買ってきてくれたんじゃん。淹れ方がいいしね!そう思う?」

「思います」

俺は何気なくクッキーを口に運んだ。

(なんだこれ!)

頭の中で思わず妙な言葉にしてしまった。

(夢のように美味い。これは本当にクッキーなのか?)

「これは・・・本当にクッキーですか」

「君、ホント面白いね。クッキーがどうかした?」

ゲラゲラ笑っている。

「おいしい・・・というか、なんて言っていいかわかりませんが、初めて食べる別の物みたいです。なんだか説明できない」

「ふうん。味が判るんだね。このクッキーはね、死んだ父ちゃんの同級生のお店で、毎年送ってきてくれるの。滅多に人には出さないよ。嬉しい?」

「はあ、嬉しいです」

(死んだ父ちゃん、か。それは実父か配偶者か・・・)

そう思う俺を見透かすように・・・。

「亭主だよ、父ちゃんって。もちろん父親のほうの父ちゃんも死んじゃってるけど、親より先に亭主が死んだの」

「あっ・・・そうだったんですか・・・」

Sさんの年齢は訊いてはいないが、36か37歳前後、配偶者はずいぶん若く亡くなったのではないか。
大目に見積もっても40代後半くらいか、と思っていたら・・・。

「24の誕生日のすぐ後だったからねえ・・・アッケないね人生なんて」

24歳?
大学職員は基本4大卒だ。
そうなると就職してすぐ結婚して・・・。
だろうけど一体それは何年前の24歳なのだろう。
結婚直後にすぐ亡くなった、くらいだろうか。

「まあ身の上話を聞かせるために呼んだわけでもないけど、父ちゃんが死んじゃって、お姑さんと娘と3人で暮らしてたんだよ。そしたら姑が再婚してね、あたしと娘でこの家に移ってきて、そしたら娘が留学することになって、9月から出ていって今は一人」

「そうだったんですか・・・娘さんはすごいですね。向こうの高校の入学に合わせて・・・」

「そうじゃないよ、高校卒業してアッチの大学に入ることにしたから、それで9月」

「えっ・・・」

(大雑把な計算だけど大学一年、つまり俺とこの人の娘は同い年で19歳。じゃあ25、6歳で産んだとしても40歳台半ば・・・。もう少し若く見えるけど・・・)

と、ツベコベ考えていると・・・。

「あたしね、高校3年で妊娠して大学1年の夏休みに娘産んだの。つまり今の自分の娘と同じ頃にもう母親。父ちゃんは3つ年上でいっしょに大学通ってたときもあったよ。父ちゃんは社会人になってすぐに、会社の仕事の事故でコロっと死んじゃってね。あたしは娘背負って頑張って授業出て卒業して、そのまま大学職員になったの。知らなかったよね。まあ、もう昔のことだし。あと職員がたくさん入れ替わった時があるから、昔のこと知ってる人ももういない」

と、Sさんはケラケラ笑った。

「職員がたくさん入れ替わった時」というのは、俺も報道の記憶がある。
大学入試の不正や、縁故入学のあっせんに関する事件のことだろう。

俺は黙っていた。
しかし高校生が妊娠して大学に入ってから出産して、というのは生き物としてなら自然の営みだが、社会の中ではそんじょそこらには無い話だろう。
俺は何度もアタマの中で、「うわっ!」「えっ!」とビックリマークが連続した。

(こんなドラマの設定みたいな人生も実際あるのか)と妙に感心した。

まさしく人は『色んな事情』を抱えて生きてるということだ。
しかしどれだけ悲しくて、無念だっただろう。
遺すほうも、遺されるほうも・・・。

「父ちゃんは登山やってて、それで山の装備とかヤッケとか残ってるものがあるんだよ。背広とかシャツとか普通の服、買ったままで着てないのもあるよ。死んじゃった人のなんて嫌だ、って思っても当然だし、無理にとは言わないから気にしないで。見てみて何でも好きなもの持っていって」

そう言い、Sさんに別の部屋に通された。
あらかじめ準備しておいてくれたらしい。
着るものは色々、地面に並べるかハンガーにきちんと吊るされていた。
ほんの少し防虫剤の匂いがしたが、なんだか懐かしい感じだった。

「あの・・・Sさん、その前に、お仏壇はありませんか?」

「仏壇?父ちゃんの仏壇ってこと?」

「はい」

「拝んでくれんの?」

なんだか『オミヤゲあるの?』とか『今日はどこ行って何食べる?』みたいな、明るい応答で調子が狂う。

「はい」

「そう、じゃあコッチの部屋。この間まで娘の部屋だったんだけどね」

通された部屋は壁にアメリカ映画『再会の時』のポスターが貼ったままであること以外、今は不在の部屋の主を何か感じさせるものは全くなかった。
よく「実家の自室が自分の物置き」っていう話を聞くが、それがない。
小さいテーブルと椅子、シンプルな小さい仏壇。
テーブルにはどこかの山の写真が額に入れて立てかけてある。
そしてハガキくらいのフレームに、やはりどこかの山の頂上らしい景色の中で撮られた5人の集合写真があった。

「真ん中が父ちゃん」

Sさんはそれだけ言った。
俺は手に取ってみた。

俺は脳みそが頭の中でズレるような、鈍い衝撃を受けた。

(こんなことがあるのか、まさかこんな・・・)

「わかっちゃったかな?どう?」

Sさんは笑っている。
穏やかな笑顔だ。

(信じられない・・・)

信じられないが、その“父ちゃん”はまるで今の俺が写真の中に入り込んだとしか見えない。
俺のことを知る人がもしこの写真を見たら、「あれっ?N、山登りなんてするんだっけ?」と全員が言うだろう。
自分でさえそう思う。

何をどう言えばいいのか俺は迷った。
鳥肌が立ったような気もする。
別に怖くも嫌でもないが、“この世にはそんなことがある”というのを現物で見せられたら・・・。
なんというか、その不思議な事実からもう逃れられないような気がする。
いや、否定しようとしても、自分が『自分の顔と姿をした他人』を写真の真ん中に見ているのだ。

俺は混乱してきた。

「3年のF君が最初に君を連れてきたときに、もうあたしビックリして膝が震えてね。大袈裟じゃなく、本当に椅子から立てなくなった。『世界に同じ顔した人が3人いる』ってよく聞くけど、譬え話というか寓話のことだと思ってた。でも父ちゃんが、いや、父ちゃんと同じ顔、背格好も同じ人が生きて目の前にいる、って思って・・・。まあ、ただの偶然だし、人の顔なんて骨の上に皮張っただけだから、そりゃ同じような人もどこかにいるな、って必死に思ってたんだけどね。でも信じられなくて。誰にも言ってないの。姑、つまり父ちゃんの母親にも、あたしの娘にも。でも娘は『何かあったな、幽霊でも見たような顔して帰ってきた』って後で言ってた。生身の人間を見ただけなんだけどね(笑)」

俺はなんのためにこの部屋に来たか、忘れるところだった。

「あの・・・自分でも驚いてますけど、拝ませてください」

そう言い、仏壇を正面にした。

「あの・・・お線香やリンは・・・?」

「ないよ。その人の好きなようにしていいから。アーメンでも柏手打ってもなんでも。父ちゃんがそういう人だったからね」

そういうことであればそれを尊重し、俺は目を閉じてしばらく頭を下げた。
位牌もなく、さっき見た集合写真をトリムして一人の写真にした物が立ててあるだけだった。
その笑顔の眼がじっと俺を見ていた。

Sさんはそれで俺を呼んだのかもしれない。
そうじゃないのかもしれない。

俺の顔や目をじっと見つめるのもそれでだったかもしれない。
でもその『意味』や『理由』は、『色んな事情』に深く関わってくる。
話してくれるなら聞くが、俺からは訊かない。
俺はそう決めた。

そして、「体格も、同じくらいですか?」とだけ尋ねた。

「そうだよ。178センチ、68キロでしょ?そうだったもの」

まさしく同じだった。

「じゃあ、サイズはちょうどいいでしょうね」

俺はそう言うのがやっとだった。
何か足元がフワフワする。

「じゃ、のんびり選んでてよ。どれでも何でも好きなのを。何も要らなかったら要らない、って言ってくれていいからね」

Sさんは笑顔だった。
そうするだけでも気持ちが違うのかもしれないと想像した。

俺はまず、冬にバイクに乗れそうな物から選んだ。
Sさんが『ジャケット』や『ジャンパー』と言わず、『ヤッケ』と言った意味はよくわかった。
登山の服だったからだ。
それでも、軽くて暖かそうなもの、普段着としてちょうどいい物、雨や雪も凌げる物はやっぱりバイクでも嬉しい。
さすがに南極にも行けそうなゴツい物は遠慮したが、ニットキャップはなんだか自分に似合う気がした。
あとはオイルコンパスだ。
これは知らない場所をほっつき歩くのに役立つ。

Sさんは居間に戻って俺を一人にしてくれていた。
ハンガーに吊るされている物の中に、品の良い背広の上下や仕立てのいいシャツ、ネクタイ、そしてベルトとよく手入れされている革靴があった。

俺は、「これ、そのうち就職活動のときにいいな・・・」と思わずプラグマティックな思考に陥り(笑)

衣装ケースの底にあった新聞紙を床に敷き、シャツを着てネクタイを締め、背広の上下にベルト、革靴を履いてみた。
何から何まで、注文服のように(注文服なんて着たことも買ったこともないが)ピッタリだった。
大学の入学式以来の背広姿だが、何か妙な、ずっと昔から着慣れているような感覚、というか錯覚に眩暈がしてきそうだった。
男性の革ベルトは穴が奇数あって真ん中に合わせるものだが、その位置でピッタリになった。
当たり前だが、俺の一張羅より数段、上等だった。

「N君、入って大丈夫?どう?持っていきたいものある?」

「どうぞ。今、グレーのスーツ着てみたところで・・・」

Sさんがドアを開けた。

「・・・」

Sさんは何も言わない。

俺の上から下まで、視線を泳がせた。
そして俺の、首の辺りをじっと見た。
ネクタイのノットがちゃんと結べてるか見てるのかな?と思った。

(サイズなら当てるだけでもいいのに、なんか失礼なことしちゃったかも・・・)

と、俺は一瞬思った。
確かに、サイズなんてもう“合う”と判っているのだから。

みるみるSさんの両目に涙が溢れてきた。
ポロポロどころじゃなく、涙が雫じゃなく筋で、両目の両端から流れ落ちた。
そのまま、嗚咽して泣いた。
大人の女性がこんなに泣くのを間近に見たことはない。

「N君・・・ごめんね。ホントにごめん。N君が何度かアルバイトしに来てくれて、ちょっとずつ“普通”の感覚になれたって思ってたの。父ちゃんそっくりな人が同じ大学に来るなんて、それに娘と同じ学年で・・・って。すごい偶然だけど、これはただの偶然、って思うようにして・・・」

また大きな声で泣いた。

こういう場合、どうすればいいのか経験値がない俺にはわからない。
俺は黙って突っ立っていた。

「そのスーツ、着てるの見たら最初にN君が教務係に来たときに気持ちが全部戻っちゃったの。それ、父ちゃんが事故で死んだ日に着てった背広でね。仕事のときは作業着に着替えていくから、後から父ちゃんの会社のロッカーに引き取りに行って・・・。ホントはあの時、自分の職場でもなんでも思い切り泣きたかったけどそんなわけにいかないでしょ。普通にしてなきゃって必死で。でも今はもうダメ。ゴメンねこんなババァがみっともないね。でも逃げて帰んないでね。もう大丈夫。ちょっと顔洗ってくるから」

Sさんは洗面所に行った。

俺は着替えて、自分の服に戻った。
選んで持って帰るつもりの物を、畳んで、まとめた。

しばらくしてSさんが戻ってきた。
普通に戻った・・・と言いたいが、やはり目が赤い。

「もう・・・やだよ、みっともない。こんな風にはなるまいって、それだけは思ってたのにダメだった。ヤレヤレだな、私は・・・」

「同じようなことは滅多にないでしょうけど、自分がそうだったらやっぱり、普通でいろっていうのは無理だと思います。誰だって同じ気持ちになるでしょうから・・・」

「そう、N君ありがとう。優しいね。なんかね、楽になったよ。父ちゃん死んで、周囲に助けてもらったり人に恵まれたりもしたけど、必死だったし息つく暇もなかった気がする。あっという間に18年も経ったんだなーって」

18年か・・・。
それこそ、他人にはわからない苦労も悲しみも、たくさんあったんだろう。

Sさんは俺の後ろ側から、俺の肩に両手を置いた。

「ホントにこんな感じ。N君、あのね、顔がそっくりだから、声もホントに同じなの。声って骨格で決まるから同じなんだってね。電話で親子が間違えられるのって、そういうことだろうね」

「声ですか・・・聴いてみたかったですね。自分と話してるみたいかな」

「そうだよ、父ちゃんともし話せたら、鏡に向かって会話してるみたいになるよ、きっと」

そのとき、Sさんは頭を俺の背中にもたれさせた。

消え入りそうな声でSさんは・・・。

「ごめんN君。ちょっとだけ、ちょっとだけこうさせて。嫌だったらそう言って」

またしゃくりあげている。

「嫌じゃ、ないです」

俺はそれだけ言った。
そのとき、妙な感覚が襲ってきた。
何か、自分と自分じゃないものがあって、その境目が薄れて、“オレがオレだと思っているもの”が、少しずつ“オレの外側”に出ていくような・・・。
文字にし難いが、何かそんな感覚なのだ。

ズレていたふたつ分の何かが、片方がスッと抜けて、片方がちゃんと落ち着いて、もともとのオレはフワフワとして、それでいてなんだかラクチンなのだ。

(これは何だろう?これは・・・)

そう思っているとSさんがまた声をあげて泣き出した。
いつの間にか、肩に置いていた両手を俺の胸にまわしている。
その手を前で合わせて一周し、手のひらを組んでいる。
バックドロップがかけられる体勢だ(笑)

「父ちゃん、父ちゃん・・・寂しかったよ父ちゃん・・・寂しかった・・・。ホントはいつもずーっと、寂しかったよ・・・あんな風に居なくなって・・・。M子も大学生・・・見せたいのに・・・会いたいのに・・・」

涙が俺のシャツを通り越して、背中が湿って温かい。
言葉が途切れ途切れになって、あとはずっとしゃくりあげ、嗚咽していた。

か細い声でSさんが・・・。

「N君、ごめん。今日だけ、今日だけ許して。ごめんね。こうしてていい?」

俺は自分の肋骨の上で組まれているSさんの手のひらをゆっくり解いて、Sさんに向き直った。
Sさんの『ごめんね、やっぱり、嫌だよね・・・』と思っているのが顔に書いてある。
寂しそうに手を両脇に降ろし、力なく下を向いた。
涙が床に落ちた。

「嫌じゃないです。全然そんなことありません。でもひとつだけ、僕が旦那様に瓜二つなのは自分でも見分けがつかないくらいです。でもそれは同じ人のようにしか見えない、同じ人のような赤の他人です。見た目と体格以外、何もかも違う別の人間です。それはSさんも充分わかってくれてますよね・・・」

「うん、わかってる。自分でもずっとそう言い聞かせてるの。あたしの都合のいい幻にN君を使ったら父ちゃんに怒られちゃうよ。ちゃんとわかっているの。でも父ちゃんもビックリしてゲラゲラ笑ってるだろうな・・・」

俺はSさんを抱き締めた。

何か、『俺じゃない俺』がいて、その俺にとっての普通で自然な振る舞いをしている。
それを『俺』が、そっとそばで見ている。
そんな感じだった。

抱き締める力を増した。

「・・・N君・・・」とSさんは口にした。

そして彼女が両腕を俺の腰にまわして、その手にギュっと力を込めたのがわかった。

「父ちゃんじゃない。だけど、だけど・・・」

言葉はそこで途切れた。

俺は少しだけSさんのうなじに手のひらを添え、Sさんにキスをした。
Sさんの下半身の力が急に抜け、辛うじて俺にまわした腕でぶら下がるような姿勢になった。
唇を離し、またキスをした。

Sさんは「ふう・・・」と荒い息を吸ったり吐いたりし、「あっ・・・」と言って目を閉じた。

「もう一回、キスして・・・」

服を選んでいたその部屋には、シュラフやツェルトマットも広げてあった。
俺はそのままゆっくりSさんを座らせて、横たわらさせた。
Sさんは安らかな目で俺をみつめた。
にっこり微笑んだ。
言葉はなかった。

俺はSさんの上になり、抱き締め、何度もキスをした。
Sさんの吐息は荒くなり、胸はせわしく上下した。
俺はSさんのボタンダウンのシャツを脱がせ、ブラジャーを取り、チノパンと下着をいっしょに脱がせて畳み、ハンガーの脇に置いた。

Sさんの均整のとれた体を間近に見ると、微かにいた『俺のそばの俺』が消えてなくなってしまった。

俺は服を脱ぎ、二人とも裸になった状態でもう一度強く抱き締めあった。
長いキスを何度もした。
Sさんは俺の目を見つめながら、たおやかな表情でいた。

彼女は両腿をゆっくり浅い角度をつけて開き、軽く膝を立てた。
俺は自然とその位置になったときに奥まで一度に挿入した。
Sさんは目を固く閉じ、歯を食いしばる表情のようにも見えた。
膣からは液が溢れ出て熱かった。

俺は挿入を繰り返した。
そのたびに彼女は濡れ、膣から溢れた。
Sさんはさらに膝を大きく曲げて膣口の角度を変え、自分からさらに奥へ促すように俺の腰に手をまわし引き寄せた。

「・・・おっぱい触って・・・お願い」

Sさんはそう言った。
俺は上半身を持ち上げ、両手で左右のSさんの胸を掴んだ。
乳首を指で挟んだ。
Sさんは言葉にならない、長い呻き声をあげた。

「・・・イキそう・・・お願い・・・中に射精してちょうだい。お願い」

「・・・いいの?」

「いい。大丈夫。・・・お願い・・・」

Sさんはまた両腕で強く俺を抱き締めた。
腰のあたりが2度、3度と波打つように上下した。
俺も突然やってきた感覚のまま、彼女の奥深いところで射精した。
すべて注ぎ終えた後も、そのままでいた。

「体がバラバラになるかと思った。こうして欲しかった。こうして欲しかったの。全部ぴったりだった・・・して欲しかったけど・・・自分から言えなかったし。それなら永遠にこうならなかったね・・・嬉しいよ。ありがとう。幸せだな、あたし」

『俺』の体に『俺』が戻ってきたような気がした。

二人で服を着たら、もう外は暗くなっていた。

「N君、今日は帰らないで。お願いだよ。一緒にいて」

俺はバイクだけを敷地の中のカーポートに目立たないように仕舞い、そのまま彼女の家にいた。

あまり多くは話さなかった。
ソファーで、彼女は俺にもたれてそのまま眠ってしまった。
俺もいつの間にか寝ていて、起きたのは月曜の朝。

Sさんはいつものキビキビした職員にあっという間に化けて、出勤準備万端になった。

「このままクルマで送っていってあげたいけど大騒ぎになるから(笑)、N君は自分のバイクで学校来て。連休はどこか出かけよう。父ちゃんの服着てね。N君はあまり興味ないかもしれないけど、キャンプとかもやってみたら面白いよ!」

そして、「あたしなんかと、こんな風でいい?それを言ったら『自分の娘と同い年』って言われちゃうけど」と、少し真顔で言った。

俺は「どうでもよくはないけど、どうだっていいです。Sさんが今その年齢でこうして暮らしてなかったら、俺はSさんとかすりもしない別の人生のはずなんですから」と言った。

「ホントにそうだね。N君、父ちゃんがよく言ってたよ。『面白いほう、自分がそうしたい方を選んでりゃいいんだ、ダメだったらダメな時だ』って。あたし気にしないし、遠慮しない。N君がイヤになったらなった時で、それはそれでいい。あたしも同じ。でもそれまでは仲良しでいてね!また学校でね!」

Sさんはそう言うと、青信号に合わせアクセルを踏み走っていった。

Hな体験

Posted by Small Stone River