あたしの家族と家庭教師の先生[前編]

純愛・青春

〔体験談投稿者:Small Stone River 様〕

私のママは、19歳の誕生日が来る前に私を産んだんだよね。
でも、よくある話じゃちょっとなくて、それこそママがオムツが取れるか取れないかくらいの頃からずっと近所で一緒に育ってきた3つ年上の彼と。
その彼とママはずーっと付き合ってて、ママは四の五の面倒くさいのが嫌いだから、高校3年の時に「どうせそのうちセックスするんだから、しようよ」って彼に言ったの。
彼も、「おー、俺はどっちでもいいぞぉ、するかぁ」って言って・・・。

「じゃあしよう、コレか?ココか?」

「たぶんそうだと思うよ」

「平気か?」

「うん、全然平気」

「こんな感じか?」

「たぶん大丈夫じゃない?あれっ?ちょっと中にピュって来たよ、今、出しちゃってない?」

「あ、出たのわかった?スマンスマン」

「ちょっとどうすんの?」

・・・ってやりとりで(たぶん)、ママのお腹には見事、私がいた。

こうなったからには仕方ない、きちんと両方の親に説明しよう、って段取りにしたらしいんだけど、二人が偉かったのは「絶対に堕ろさない。大学には這ってでも行って卒業する。お腹の子に『自分さえいなかったら両親は大学にも行けた、やめずにすんだ』って思わせたくない」って言ったんだって。

それぞれの両親(つまり、あたしにとっておじいちゃんとおばあちゃんたち)も大したもんで・・・。

「こうなったからには仕方ない。幸い、ジジババ×2ずつで4人いる。総動員で手伝うからなんとしてでも大学に受かれ。途中で放り出さずに卒業しろ。私たちはお前らの味方だ」

って言われたんだって。
パパだけはあとで自分のお父さんからぶん殴られたらしいけど(笑)

オトコは気楽でいいよ。
生まれるまで何もすることないから(笑)
ママはすごかった。
妊娠したのが高校3年の秋。
いよいよ受験の頃にまだツワリがひどくて、受験会場に着いたらまずトイレでゲーゲー吐いたらしい。
試験中に真っ青になってたら、試験官に「気分が悪いんですか?」って訊かれて、「ツワリです」って思わず言っちゃったら周囲が声には出さないけど「うわぁスゲぇのがいる・・・」って感じだったんだって。

それでも、「ツワリごときで大学落ちてたまるか!」って、もう執念だね。

それで父ちゃんと同じ大学に入った。
お腹もだんだん大きくなってきて、えっちらおっちらだけど、困ってると周りの学生みんなが助けてくれたって。
無事に一回生の夏休みにあたしが生まれて、今でも「あんたが夏休みに生まれてくれたのが最高の親孝行」って言われる(笑)

4人のジジババが交代で世話したり、どうしても無理なときはママは私を背負って大学行って授業に出る。
つまらない授業の時はわざとあたしのお尻をつねって、あたしがギャン泣きすると「すみませんあやしてきます」って言って外に出ちゃう。
またはわざとオッパイを出して授乳始めると、「出席にするから外でやってくれ」って言ってもらえる。
どうしても子連れで行けない授業、たとえば体育実技なんかだと名前も知らない学生たちが「3限までならみててあげる」「甥っこがこんな感じだからオムツも替えられる」って助けてくれて、ママはありがたくていつも人が見てないところで泣いたって。

パパはどうしてたかと言うと・・・。
男って本当にしょうもなくて、山岳?登山?そういうのがずっと好きで、一年中どっかの山だのナントカ岳だのに行ってたみたい。
たまーにしか学校来ないから「仙人」って呼ばれてたくらいで、それでもママと一緒に懸命にあたしを育ててくれた。
卒業後は、昔なら漢字4文字、今は3文字のアルファベットになってる『電話の会社』に入った。
難しくてなかなか入れなかったらしいよ。

パパがその会社に入ろうと思ったのは魂胆があって、『ナントカと煙は高いところにのぼりたがる』じゃないけど、電信柱に登って工事してるその会社のクレーン車みたいなのを見て・・・。

(あの会社に入れば好きなだけ高いところで仕事できるんじゃないか?)

って、思ったらしいの。
それで、その会社の面接でそう言ったら、面接官の人が「そんなのは下っ端がやることだ」みたいなことを言ったから、パパは憤慨して「この会社があるのは昼も夜も真夏も真冬も、雨が降っても雪が降っても電信柱の上で電話線繋ぐ者がいるからじゃないですか?!」って捨て台詞みたいなやりとりで、(あー、落ちたな・・・)って思ってたら合格だったんだって。
なんでも何人かいた面接官のうちの一人に、そういう電柱に登って工事する人から叩き上げで偉くなった重役がいたらしい。
何がどう転ぶかわかんないね(笑)

そんなこんなで、パパはその会社に入った。
日本の会社が面白いのは将来偉くなる人として就職しても、最初は電柱昇って工事したり、駅員さんになってホームや階段の掃除したり、なんだってね。
パパは目論見通り、高い電柱の上で電線切ったり電話線を繋いだりと、喜々として鳶職みたいな仕事して、休みの日は電柱の百倍はある高い高い山に登りに行っていたらしい。
それなら普通の仕事して、休みの日にいくらでも山登りすればいいじゃない、ってママは思ってたらしいけど、パパは「オレは地面に足がついてると落ち着かないんだ」だって。
もう諦めの境地だよね。

そして、いつものように電柱の上にクレーン車みたいなので持ち上げられてる最中、フラフラ車道に出てきた自転車を避けたダンプカーが突っ込んできた。
クレーン車はまるごと倒れたんだけど、パパは直前、いっしょのカゴに乗ってた同僚の人の命綱を電柱の方に付け替えた。
倒れても電柱側にぶら下がるように、らしかった。
パパも同じように自分の命綱を付け替え・・・る前に、もうダンプカーがクレーン車に激突して、倒れたクレーン車は横倒しになってそのまま道路の横の川に落っこったんだって。
一緒に工事してた人は、カゴからポーンと放り出されたパパが川に落ちるのが見えて、「水に落ちた、水なら大丈夫だ、助かった」って思ったらしい。

パパはスポーツ万能、得意で何でもできた・・・。
だけど、ひとつだけまったくダメなのが“泳ぐ”ことで、くるぶしが水に浸かるのでも真っ青になるくらい水が苦手だった。
たぶん水に落ちたときにパニックになって、藻掻いて水飲んで沈んじゃったんだろうって。
社会人一年ちょっとで、呆気なくパパは死んじゃった。
あたしも記憶にはほとんどない。
なんだか、大きな背中に這い上がった思い出があるような気もするけど。

ママもみんなも、しばらく泣き暮らした。
そりゃそうだよね。
ママなんてまだ学生、今で言うシングルマザーっていうか、いきなり未亡人だもの。
でも、4人のジジババもママも、ある日ガバッと我に返り・・・。

「泣いてても仕方ない。こうなったらこうなったで生きていくしかない」って。

そういう気持ちがスパっと切り替えられるところがなんだか遺伝であたしも似てる(笑)

その頃にはあたしもだんだん成長してきた。
乳幼児にしてはさほど手もかからず、ママと一緒に大学の授業に出ても「寝てなさい!!」って言われるとグーグー寝てたそうだ。
あたしが大学生になって自分の大学の授業に出ても必ず眠くなったのはそのせいだ、って今もママに言ってイジワルしてやる時もある。
パパの事故は会社の仕事中だし、仲間の命を助けて犠牲になったっていうのもあって、会社からは補償のお金が結構出た。
ぶつかったトラックの会社からもそれはあったらしい。

そのお金の金額を見て計算したママは、「贅沢は興味ないし、このお金で大学どうにか出るまでやっていけそうだし、この子も育てていける。そのうちジジババたちも私より(たぶん)先に死ぬ。だから親子二人で生きていける手段と方法を考えよう」って思って、“食いっぱぐれない職業はなんだろう?”って考えたらしい。

そこで、(このまま、ここの大学の職員になっちゃえば転勤とか無縁そうだ)って思って、就職活動でそれ一本に絞って、自分の行ってた大学の職員採用の試験を受けた。

ママは「子連れ女子学生」ってことで学内じゃ有名で、女性週刊誌にオモシロおかしく取り上げられて載ったこともある。
そしてそこは戦略で、自分が大きいお腹の時も赤ん坊を背負って学校に来てた時に名前も知らない学生に助けられた話とか、乳飲み子を背負って授業に出てもちゃんと受け入れてくれたとか、父ちゃんも卒業生で不慮の事故で死んじゃったとか、面接でうまーく“泣き”を入れて、「この学校と学生に恩返しがしたい、困っている学生がいたら助けになりたい」とか1ミリも思ってない(笑)ことを喋りまくり、首尾よく合格。
4年間通った学校に、また社員みたいに通う生活になったんだ。
卒業式はあたしもテクテク歩いて一緒に出た。
スーツのママと手をひかれる私。
今、写真見ても完全に幼稚園の入園式か、七五三だよ。

あっという間に10年ほど経って、あたしも小学校を卒業。
中学生になって、「若いお母さんだねぇ」ってたまに言われても、まあ、若いお母さんなら広い世の中にはフツーにいるし、ネンネコで娘を背負って学校に来る大学生って時ほど目立たないし、普通の生活だった。
両方のジジババも健在だったけど、パパの方のジジと、ママの方のジジがそんな高齢でもないうちに続けざまに死んじゃって、そしてママの方のババも病気でコロっと死んじゃった。
それで、パパの方のババ、つまりママのお姑さんとあたしたちだけになった。

そのおばあちゃんは、パパを18歳のとき産んでる。
さすがにそのときのジジは高校生じゃなかったけど、似たようなもんじゃない?
パパがママを妊娠させた時にそんなに怒らず、むしろニコニコしてたってのは、後から聞いた話だけど、まあ自分の時も似たような感じだったからだろうね。
でもパパが死んじゃった時、おばあちゃんはまだ40歳をちょっと過ぎたくらいだったから、どんなに悲しかったかと思うよ。
まあ孫の顔は見られても、お母さんにとって息子って永遠の恋人みたいなものって言うけど、どうなんだろ?

中学2年で14歳のあたし、33歳のママ、54歳のお姑さんであるババ。

「女ばっかりの3世代でここはひとつ相談だ」って、あたしも無い知恵をしぼって話に加わった。

おばあちゃんが、「あんた達さえかまわなければ、ウチのマンションに住んだらいい。オトウチャン(ジジのこと)もいなくなって部屋も余ってる。S(あたしのこと)が中学校を転校するのが嫌だったら無理にとは言わないけど」って話になった。

あたしは学校なんて変わっても変わらなくても何も平気だから、「ママ、みんなで一緒に住もうよ。これでおばあちゃんがある日一人で死んじゃってたら困るじゃん」って言うと、「ホントにそれは色々面倒くさそうだ。じゃあ、そうします」って会議は1分半で済んで、あたし達は変則3世代で一緒に住む生活になった。
ママは、自分と似たとこの多い姑(おばあちゃん)と気が合って仲良かった。
(まあ、たとえ気が合わなくてもママはお構いなしだったろうけどねー)

高校に合格して進路が決まったら・・・って、他の家の人たちは考えるだろうけど、あたしはそのへんは別にどうでも良かったから、あたしが中学2年生から3年生に変わる春休みのタイミングで引っ越すことになった。
あたしは学校って好きだし、転校してもすぐ厚かましい顔して馴染んでた。
友達もすぐできた。
勉強も嫌いじゃないんだけど、『人はどうして勉強するのか』『なんのために生きるか』『生きるってどういうことか』とか色々考えてしまうタチで、そういうのは学校の先生に訊いてもダメというか無駄だって知ってたし、じゃあ塾で塾の先生に訊けばどうかってこともさらに無駄だっていうのもわかってた。

だからママに、「勉強は嫌いじゃないけど、どうして勉強するのか、ニンゲンって何のために生きてるのか、そういうの教えてくれる人雇って」って大胆な提案をした。

ママは3秒考えて、「よしわかった。待ってて」と言い、おばあちゃんも「うん、この子はそれがいい」ってふたつ返事だった。

そして、4、5日後・・・。

ママが「今セイフー(近所のスーパー)にいるの。先生連れてくから、S、ウチにいて」って電話してきた。

それから10分くらいで、ママが男の人連れて帰ってきた。
あたしはてっきり、ママは自分の勤めてる大学の大学生かなんかを連れてくると思ってた。

(大学生どころかフツーのサラリーマンにしか見えないけど何歳?どこでとっ捕まえてきたんだろ?)

そう思ったけど、その男の人は静かに「こんにちは」と挨拶した。

「Nです。お母さんに頼まれて、もし私で良いなら教えます」と言った。

静かで優しい、でもはっきりした言葉で話す人だった。

テーブルを囲んで4人で座って、話を聞いて、あたしはおかしくなって吹き出した。
ママはあたしが頼んですぐに、よくスーパーの入り口とかに貼ってある『タンスあげます』とか『子猫もらってください』みたいな掲示板の中から、『家庭教師やります』を見つけては、すぐ電話しまくってたんだって。
(ネットも携帯もスマホもない頃、それくらいしか方法なかったんだよ)
でも、「もう決まりました」とか、「男子生徒しか教えません」とか、間に合わなかったり断られたりしてたらしい。

(これはもう書いてるヤツを見つけ次第つかまえるしかない!)

ってママが思ってたら、男の人がそこの掲示板のメモを書く机で屈んで『家』って書いてるのを見つけて、すぐ手首を鷲掴みにして「ちょっとアンタ!」って話しかけたらしい。
ずーっと後で聞いたけど、先生はそのときママのことを“スーパーの私服警備員”、つまり、万引きGメンだと完全に思い込んでしまったらしく・・・。

「万引きじゃないです、この店に入ってもいません」

って必死に抗弁(笑)

「万引き?アンタ何言ってんの?それ『家庭教師やります』じゃないの?」

「はぁそうですけど・・・」

で、そのまま拉致してきたらしい。
そういう時、ホントあたしのママは迷いがないよ。
後になって「どうして大学(ママの勤め先)で探さなかったの?」って訊いたけど、「身内はヤなんだよ。雇われる方だってやりにくいでしょ?」だって。
そんなものかな。

先生は自分のことはほとんど自分からは話さないし、ウチの家のことも「お父さんはいないんですか?なぜいないんですか?おじいちゃんはどうしたんですか?」的なことも絶対訊かない。
でも何か質問すると、訊いたことは全部話してくれた。
先生の育った家は裕福じゃなかったけど、中学や高校で良い先生にめぐり遭って、『人と人の出逢いは人生を決める、人生が変わる』ってことを考えて、自分も教師になろうって思って中学校の教師になったんだって。
それで10年間先生やって、3年生の担任もやって卒業生も送り出して、『でもまだ勉強が足りないことがある、もっと勉強したい』って思って、一旦辞めて大学院に入り直したって。
でも大学院ってそんなに忙しくないし、毎日も通わないんだって。
それで、家庭教師やるか、塾の先生に応募しようって思ってたんだって。
だから話し慣れてるというか本職だし、プライバシーやプライベートは色んな問題抱えてる人や家族にも接してきただろうから、根ほり葉ほり訊かないんだね。

あたしは、それほど勉強が出来ないわけでもない(笑)
でも、せっかく先生が来るんだから、学校で終わった単元のもっと先を勝手に読んで、どんどんわかんないところを聞いて教わった。
先生はそういうときすごく嬉しそうだったし、英語とか歴史とか、高校生どころか大学生が使うようなテキストを持ってきて私にくれて、「わかるところだけでも読んでみてください」って言った。
そういうの、どの科目でも後になってすんごく役に立ったよ。
それで勉強と全然関係ない話、あたしが自分一人で考えこんでなかなか思うように結論なんて出ないことでも何時間でも話を聞いてくれて、絶対に「それはこうだ」「こうあるべきだ」って言わず、控えめに最後に「僕個人の考えはこうですが・・・」って、ちょっとだけ付け足すのがいつものことだった。
でも、先生の考え方はすごく私にとって助けになったり、迷うことがあっても自分で決める材料にいつもなった。

「先生が来てくれてよかったなぁ」「よかったねぇ」ってウチではいつも話してたよ。

先生は、高校時代にお蕎麦屋さんでアルバイトやってたそうで、卒業するときにお蕎麦屋さんの出前に使うバイクを貰ったらしい。
ずっとそのバイクに乗ってて、壊れたら修理してまた乗って、いつもそのお蕎麦屋さんのバイクでウチに来た。
しかもお蕎麦屋さんやラーメン屋さんが出前の岡持ちをぶら下げる、バイクが揺れても大丈夫なアレ、あるじゃない、アレがついたままのバイクなんだよ(笑)
笑い話だけど、マンションの人たちが、「なんか最近やたら同じ出前の人が来るけど、どこの部屋だろう?」って管理人さんに聞いてたって。
先生は、「本や荷物も積めて、実は白バイやパトカーも『ああ出前か、きょうはキップは勘弁してあげるから気をつけて安全運転しなさい』ってちょっと大目に見てくれるんですよ・・・」って笑ってた。
お蕎麦屋さんじゃないのにズルいんじゃない?

「お休みの日は先生何してるの?」って聞くと、「そうですねぇ・・・野鳥とか見にいきますね、K川の河原とか」ってもう、浮世離れしたこと言う。

これもずっとずっと後に聞いたけど、学校の先生って安定した職業で収入も信用もちゃんとあるし、いくらでも楽しい趣味に使えばいいのに、なぜかギャンブルとか風俗にのめり込んで人生棒に振るような人が結構いるんだって。
先生は趣味や余暇に使うお金はない家で育ったから、やろうと思えばやれるけど、そういうことには逆に興味が持てなかったらしい。
鳥の写真撮るカメラと双眼鏡だけは買って、海苔の缶か魔法瓶みたいな大きいレンズも仕方なく買って、あとは気が向いたら鳥を見に行って写真撮って、誰に見せるわけでもないけど写真のアルバムにしていた。
あたしが「見たい」って頼んだら嬉しそうに持ってきてくれた。

先生は独身だった。
結婚したこともなかった。

「先生恋人は?」って訊くと、「いませんねぇ・・・」としか言わない。

「付き合ってた人は?」って訊いても、「昔のことはね」とだけしか言わない。

あたしはなんとか口を割らせようと色々画策したけど白状しない。
ママとあたしが「ホントにいないんだね」って話してたらババが割って入って、「今いないかもしれないけど、ああいう人が本当はモテるんだからいなかったはずはない」って強く断言する。
あたしは「先生は優しくて、顔立ちもまあ普通だけど、本当はモテるってなんで?」ってババに訊くと、「ああいう男の人が一番モテる理由がわかんないんじゃ、アンタもまだまだだね」って笑ってた。
理由はホントに後になって、わかったけどねw

<続く>

純愛・青春

Posted by Small Stone River